慶長20年()のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・によって本陣を脅かされた。
それでは、衝撃的な後水尾天皇譲位の裏側をご紹介しよう。
天正19年()、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。
在職期間の一番短い慶喜(1年)が、30年近く将軍の立場にあった吉宗・家光・綱吉と並んでトップ5入りを果たす結果となりました。
しかし、彼は他の兄弟達と比べるとその活躍はどこか乏しく、偉大な初代に次ぐ二代目の宿命といいますかどこか地味な印象を受けます。
小牧・長久手の戦いの後、次男秀康を秀吉の養子としていたものの、次女督姫を、同十一年に秀吉と敵対する北条氏直に嫁がせていたこともあり、家康は、嫡子の秀忠を上洛させ、秀吉への服属姿勢を示さなければならなかったのだ。
でも、武将としての秀忠を物語る資料には1つ、興味深いものも。
このことが二代目を決めるにあたって大きく左右した可能性はあります。
1307-1309• 本来、3男が後を継ぐ事はなかなかありませんが、彼が生まれた年に家康の長男・信康は切腹、また次男・秀康は豊臣秀吉の養子となっていたため、3男であった秀忠が、跡継ぎとなることになるのです。
これにより、徳川家の将軍職世襲がほぼ内定し、また秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。
しかし、この法度により、朝廷の専権事項であった紫衣の許可について、事前に幕府への申し出が必要となったのである。
『』(NHK大河ドラマ、2006年)演:• 確かに家康は狸オヤジだったが、その分、柔軟性があった。
その一方で、2代将軍とになって徳川幕府のリーダーとして手腕をふるった秀忠は、幕府の土台をつくるさまざまな業績を残し、有能な政治家ぶりを発揮しています。
長男の徳川信康が織田信長の命令で切腹。
将軍とはいえ、何事も自分で決めることはできず。
ただ、現実に。
そして、この後水尾天皇の心情を伝えたのが、先ほどご紹介した細川忠興の手紙である。
その後の7年間こそが、まごうことなき「徳川秀忠の時代」である。
この手紙には、幕府に対する不満や痛烈な皮肉が、てんこ盛りに紹介されているのである。
:娘(母は正室・江(崇源院))、室• そこにまた、大いなる未知数を感じる。
なんなら、家康の命令を忠実にこなすためだけに、次期将軍に選ばれたという印象も。